ひげじいの「ひるがの日記」記事詳細

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2015/04/08

白馬村へ行ってきた

毎年4月の初旬にスキー部のOB会で白馬へ集まることになっている。
名簿を見ると爺は35名存命中の26位だから若い方なのでアル。戦後に創立した大学で旧制高校や
師範学校・専門学校などそれぞれの地域の特徴やプライドがぶつかりあって出来上がったためか、
上田・長野・松本・伊那と長野県のアチコチに学部が散らばっている所謂タコ足大学なのじゃ。

一般教養時代には同じ教室に通う他学部の学生と友人になることもあるが、
出席の返事をしたらグランドへ逃亡したり山へ向かったりする者も多いので、
今も続いている友人はたいてい下宿か運動部のつながりでアル。

運動部は先ず学部対抗戦という大会でカオを合わせ、その中で実力とヒマと
僅かながらもカネのある連中が集まってオール信大何々部というのが組織される。
オール信大スキー部というのは昭和30年頃に始まった「中部日本学生スキー選手権大会」に
出場するために急遽寄せ集められたが、その生き残りがこの会の最長老OBなのである。

当時は富山や新潟など国立大学が巾をきかせていたらしい。
4年生の頃には常に優勝候補の一角で健闘していた爺ではあったが、地元民の新人で凄いのが現れて
滑降競技で100人以上が滑ったアトにスタートして優勝をかっさらったヤツがおり、爺は3位に甘んじた。

ここから第二期黄金時代が始まるのである。OB会も最初の頃は全員スキーを担いで集まり、
ゲレンデで『オヌシ!まだまだデキルな!』とお世辞を言い合っていたが、
やがて飲み会にしか参加しないメンバーが多くなり、今年は爺もとうとうスキーを持たずに参加してしまった。
(セピア色の写真は昭和38年、野沢温泉スキー場での全日本インカレ回転競技三部出場の雄姿?で
 当時の服装や滑り方はこんなもんだった)

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いまだにマスターズの全国大会に長野県代表で参加されている大先輩もおられるので
『今シーズンは一度しか滑っていません!』というのはチト恥ずかしい爺ではあった。

昭和38年(2年生)の冬頃から、少しでも安くスキーをしたいと白馬村の民宿で
アルバイトをしながら八方尾根を我が庭のごとく滑り回っていた。
朝と夜は仕事を、お客様を送り出したらゴンドラのタダ券を借りて出掛けリフトに乗ったままで
特大オニギリを食べながら寸暇を惜しんで滑りまくっていたのである。

時にはインストラクターが足りないと修学旅行の女子高生を指導したこともあった。
スキーさえ出来れば給料は要らないという学生を『居候』と呼んでかくまっていた制度のハシリなのじゃ。
今でもその制度の名残があるが、なぜか青い目の居候だったりして、
お客様もオーストラリアやアメリカ・北欧からタイなど東南アジアまで多岐にわたり、
居候もインターナショナルでないと務まらないようになってきた。
(写真は爺が居候しOB会の会場でもある「しろうま荘」と八方尾根スキー場の全景である)

150408_02

スキーはしなかったが冥土の土産に懐かしいゲレンデを見たいという先輩と一緒に、
長野五輪で舟木や原田が感激の金メダルに輝いたジャンプ台とリーゼンスラローム大会のゴールになった
名木山ゲレンデで写真を撮ってきた。

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4年生の時には一応オール信大スキー部のキャプテンをやっていたので、
時々地元の新聞記者に追いかけられて『なんで信大はこんなに弱いんですかぁ?』と質問されたりした。

だいたい白馬高校や飯山北高スキー部のトップクラスは東京の大学へ引っ張られ、次のクラスは関西の私大へ、
地元の国立大学へ進学する連中は殆どスキーとは無縁なヤツが多かった。
京都から出てきたギオンのお坊ちゃまがキャプテンやっていたのだから、その実力は推して知るべしなのでアル。
(恥ずかしながら京都の高校3年生の時は、受験直前の3学期に授業をサボって国体にも出場しておったのじゃ!)

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